血脇守之助碑
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血脇先生謝恩の碑 手賀沼公園の東端の一角に「血脇先生謝恩の碑《がある。我が国の歯科医師界の発展に尽力した血脇守之助に感謝するために、子弟が建立したものである。 血脇守之助は明治3年2月1日、我孫子宿で旅籠屋を営んでいた加藤家の長男として生まれる。 明治11年、我孫子の尋常小学校に入学。この頃から秀才とうたわれ、明治15年12月に4か月早く卒業して叔父に伴われて上京、慶應義塾童子寮に入った。その後東京英学校・明治英学校・明治学院等を経て明治22年4月慶應義塾を卒業した。 明治24年1月、新潟・三条に英語教師として赴任するが、この時英字新聞でアメリカに一般の医師とは別に歯科医があるのを知り、歯科医師になることを決意して再び上京、高山歯科医学院に入学した。明治28年に歯科医師免許を取得し、高山歯科医学院講師兼幹事に就任する。 この頃、野口英世が血脇守之助を頼って会津から上京。野口の才能を認めた守之助は、学費・下宿代など物心両面で野口を援助している。 大正15年、日本歯科医師会の会長に就任、以後歯科界の発展と運営に尽力する。昭和22年2月24日肺炎のため死去。享年77。業績は碑面の通り。 碑は昭和15年に、我孫子駅前の市街地に建てられたが、都市開発計画により昭和53年に現在地に移建された。 血脇先生謝恩之碑 (碑面) 従三位 池田成彬題額 血脇守之助先生の歯科界に於ける多年の業績は茲に呶々を要せず歯科医育の独 立歯科医師制度の確立歯科医師会の設立等々で斯道の向上に資すべき経綸施設 一として先生の指導補翼に成らざるものなしと云ふも過言にあらす先生の功業 は我歯科医術発達の歴史と共に永世上巧なりと云ふべし 先生高山歯科医学院を継承し育英の業を主宰すること既に40年に及ぶ今や先 生の門下歯科に業を立つる者8000人中に最高学位を帯び又は吊声一世に高き者 数十百人を算すべく桃李 門亦一代の盛事なり 先生天資温厚姿度広大頗る大人の風あり晩年易を好み造詣甚だ深し又能く時務 に通じ経済に明かにして経世家の素質に富む人或は功吊場裡に擁せんとするも のあるも先生初志に殉ずるを以て任とし敢て動かず終始一貫力を歯科界に效し て老の至るを知らざる者の如し先生茲に古希を越えること1歳時偶々東京歯 科医学専門学校創立50周年祝典挙行の佳辰に会す即ち後進子弟 謀り先生生 誕の地を選び碑を建て文を勒し其寿康を祝し併せて謝意の意を表す 紀元二千六百年十一月二日 従四位勲二等木下謙次郎撰 アクセス JR常磐線我孫子駅南口より徒歩約10分 駐車場 有(最初の1時間は無料。その後、1時間ごとに100円。 駐車場利用時間は8時30分から21時30分) |